6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である[91]。6月24日に日本に戻る[92]。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう[要出典]。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した[要出典]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した[93]。, 1944年(昭和19年)10月22日、大和はレイテ沖海戦に参加するため第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した[94]。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡愛宕がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた[95]。, 24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中している[96]。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行った[97]。, この戦闘で、大和は主砲弾を32,000mの遠距離から104発発射した。この砲撃に対し護衛空母のカリニン・ベイは「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している[98]。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している[99]。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で[100]、最初の「正規空母」は護衛空母ホワイト・プレインズで、次の艦はファンショー・ベイである[101]。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい[102]。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている[103]。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している[99]。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されている。, 戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった[105]。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した[106]。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面があった[107]。, アメリカ軍の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、利根型重巡洋艦1番艦利根艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡羽黒と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている[108]。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている[109]。, アメリカ側では0725-0730頃、駆逐艦ホーエル、ジョンストンが戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦、巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、ホーエルが艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。また、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(利根、筑摩)もホーエル、ジョンストンを砲撃しており、特にホーエルは0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホーエルに対して追撃を加え、0835にはホーエルは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった[111]。ジョンストンは0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に軽巡矢矧を先頭に第十戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは、矢矧に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの0940に包囲され集中砲火を浴び沈没した。このため、この海戦で大和が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。なお、この海戦で0850以降に大和が重巡洋艦鳥海を誤射したという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が鳥海及び筑摩を誤射した可能性は無い[要出典]。, 雑誌『丸』(2015年)にて、当時の羽黒乗組員である石丸法明が鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、「金剛による誤射だった」という説を提唱している。, アメリカ軍の損害は、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母セント・ローが沈没、数隻が損害を受けた[112]。, アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究によれば、この海戦による大和による砲撃の効果は以下の通り[113]。, サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けてレイテ湾に突入することなく反転を命じた[114]。宇垣中将の著作には、当時の大和艦橋の混乱が描写されている[115]。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した[116]。, 往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった[要出典]。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た[要出典]。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う[要出典]。また前甲板の爆弾は錨鎖庫に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した[117]。, 10月28日、大和はブルネイに到着した[118]。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが特に戦闘は起きなかった[119]。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する[120]。同日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)とともに内地に帰還したが、台湾沖で戦艦金剛と駆逐艦浦風がアメリカの潜水艦の雷撃により撃沈されることとなった[121]。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛5代目艦長にかわって有賀幸作大佐が6代目艦長となった(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦。)[122]。, 大和の姉妹艦である武蔵の沈没は大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え[123]、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた[124]。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した[125]。, レイテ沖海戦で、日本の連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した信濃も呉回航中にアメリカ潜水艦の雷撃で沈没し、結局大和と信濃が合同することはなかった。大和以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている[126]。, 1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港に敵艦載機が襲来、大和は事前に安芸灘に出たが攻撃を受け、直撃弾はなかったものの、測距儀が故障、陸あげ修理を要した[128]。その後、すでに安全な場所でなくなった呉軍港から徳山沖に疎開した[129]。, 同年3月28日、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」(三上作夫連合艦隊作戦参謀)[130]に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となった[131]。, 3月30日にアメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥った。関門海峡は27日にアメリカ軍によって機雷封鎖され通行不能だった[132]。, 4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討された[133]。, この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた[134]。伊藤中将は山本大佐を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた[135]。, 一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が大和による海上特攻を主張した。連合艦隊の草鹿龍之介参謀長はそれをなだめたが神大佐は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神大佐が計画した。神大佐は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神大佐は草鹿参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊司令長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田司令長官は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、上手く行ったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」と言う。一方の草鹿参謀長も「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という[136]。, 神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している[137]。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長の小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という[138]。第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまったため、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判している[139]。, 4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した[140][141]。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したという[142]。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想している[143]。この特攻隊は連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された[144]。, 大和では命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた[145]。大和の高角砲員であった坪井平次によれば、しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたが、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していたという[146]。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦[147]。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った[148]。, 大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している[150]。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いている[151]。, 第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。, 天一号作戦の概要はアメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。さらに立案者の神重徳参謀の構想では、もし沖縄にたどり着ければ、自力座礁し浮き砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させることも描いていたとされる(神大佐は、以前にも戦艦山城を突入させ浮き砲台としサイパンを奪還すると具申して、中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下されたことがある[152])。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた[153]。なお、大和を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが[要出典]、上記に理由で却下されている。また、現実を見ればアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の主意は、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦であった。戦争末期には日本海軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカのスレッドフィン、ハックルバックの2隻の潜水艦に行動を察知された[154]。4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は大和と矢矧に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された[155]。, 当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた[156]。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまった[157]。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという[158]。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し[159]、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた[160]。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲であった[161]。, 4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた[162]。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した[163]。九州近海までは、レイテ沖海戦で大和に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊(鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った[164]。能村副長はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する[165]。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もある[166]。実際に護衛は行われたが、天候不良で第二艦隊を発見できず引き返す隊や、第二艦隊の壊滅により発進中止となる隊があるなど、急遽決定した特攻作戦のため準備不足の中途半端な護衛になってしまった[167]。, その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還し、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる[168]。スレッドフィンが零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる[169]。アメリカ軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が大和を発見した[170]。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も大和を視認した[170]。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった[171]。大和は主砲以外の対空火器で砲撃したが、アメリカ偵察機を追い払うことはできなかった[172]。, 4月7日12時34分、大和は鹿児島県の坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した[173]。8分後、空母ベニントンの第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する[174]。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、アメリカ軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した[175]。大和は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している[173]。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった[176]。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た[177]。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある[誰によって?

なんで幕臣の明智光秀が戦に参加するんですか?, さっきアメリカが国家非常事態宣言を出したそうです。ネットで「これはやばい」というコメントを見たのですが、具体的に何がどうやばいんですか?.

旦那が東大卒なのを隠してました。 十兵衛さん、どんなに頑張っても損な役回りですよね。, 『麒麟がくる』で幕府は織田VS朝倉の戦には関与しないのに、

もし参戦していないとすれば、何故ですか?, 大河ドラマ「麒麟がくる」感想戦!? <>>> 2 0 obj ご存知の方、よろしくお願いします。, 日本史・62,866閲覧・xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25, ベストアンサー:戦艦大和の戦死者は2,498名ですが、救助された乗組員数は276名あるいは269名となっています。 質問の上級士官で生存帰還された人では、第二艦隊参謀長である森下信衛.

二回も連続で落ちるとかなりショックです。 %PDF-1.5

3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[45]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[46]。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった[要出典]。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した[47]。同6月14日柱島に帰投する[要出典]。, 大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛・比叡・榛名・霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。, 1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[48]。8月21日、グリメス島付近を航行し[49]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが[50]、入泊直前に大和はアメリカの潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している[51]。その後、トラック泊地で待機した。 stream 【B】甘蔗 ]。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある[213]。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという[214]。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された[190]。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった[215]。, また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが[216]、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり[要出典]、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である[要出典]。, 14時、注排水指揮所との連絡が途絶し舵操舵室が浸水で全滅した[217]。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった[218]。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた[219]。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった[220]。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた[221]。, 大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった[222]。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した[223]。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した[224]。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する[225]。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した[226]。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある[227]。, この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している[228]。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した[229]。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた[230]。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。, このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[231]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である[232]。, 『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない[233]。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。, 最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた[238]。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った[239]。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った[240]。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが[241]、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた[242]。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた[243]。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した[244]。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた[245]。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた[246]。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる[要出典]。, 14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している[247]。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた[248]。左舷の高角砲も半場海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た[70]。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた[70]。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する[249]。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある[250]。, 大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分[252]、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している[253]。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった[70]。, 所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた[254]。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた[255]。, 14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した[256]。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた[257][258]。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された[259]。, 頭頂部に裂傷を負った能村副長は、森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた[260][261]。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している[262]。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した[263]。, 冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた[264]。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた[265][266]。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった[267]。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した[268][269]。, 大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名[270]または276名[271]、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった[272]。, うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)[要出典]。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている[273]。, 4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった[274]。, 大和沈没の報は、親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという[275]。同様の感想は、大和の沈没を目撃したアメリカ軍搭乗員も抱いている[276]。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[1]。, 4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた[277]。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した[278]。, 12月9日、GHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した[279]。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている[279]。, 大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。また、徳之島から見えたという伝承がある[280]。, 爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる[要出典]。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが[281]、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である[要出典]。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている[282]。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している[283]。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが[284]、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある[285]。, 同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた[286]、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど[287]、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である[288]。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある[289]。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった[290]。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている[291]。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は[292]「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている[293]。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした[294]。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある[295]。, アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという[296]。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった[要出典]。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない[要出典]。, さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想[297]。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本[298]。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発[299]。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発[299]。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張[300]。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている[299]。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた[301]。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した[302]。, 呉市の旧海軍墓地(長迫公園)に「戦艦大和戦死者之碑」がある。大和が建造された旧呉海軍工廠(現在はジャパン マリンユナイテッド)のドックを望む歴史の見える丘にも艦橋の高さの1/10の記念碑が設立された。徳之島にも戦艦大和慰霊塔が建立されている(塔の高さは艦橋の高さと同じ)。建造されたドックは埋め立てられているが、機密保持のために設けられた屋根はそのまま残されている。修繕に使用された北側のドックは、2017年現在も稼働中である。, 戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067[303]。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる[304]。, 戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。, 1985年(昭和60年)、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。, 1999年(平成11年)にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。2009年(平成21年)1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。, 2016年5月、呉市の依頼で深田サルベージ建設が「はくよう」を投入して調査が行われた[305][306]。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した[305]。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された[305]。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には大和ミュージアムの学芸員も同席した[305]。この調査では遺品の回収は行われなかった[305]。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された[306]。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている[306]。, 大和の艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれている[307]。艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までは[283]、右に傾いて北西(方位310度)に向いて沈んでいる[307]。艦中央部から艦尾まで後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、転覆した状態で東(方位90度)方向を向いている[283][307]。双方をあわせると全長276mとなる。後部も大きく破損しており、破断状態に近いために「大和の船体は3つに分断されている」とする出典もある[308]。その他に、激しく損傷した中央部分と思われるブロックが3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に沈んでいる[307]。, 大和の艦首部分は右に傾いて沈んでいる。1番主砲塔は脱落しているが、バーベットは無傷で保たれており1999年や2016年の調査でも潜水艇がバーベットの穴の内部の撮影を行っている。1番主砲塔直後より船体は切断されており2番主砲塔のバーベットは残っていない。艦首部分の右側側面は激しく損傷しており、ほぼ右舷側が吹き飛ばされて存在しない状態となっている。大きく右側に傾斜して海底に沈んでいるので、1番主砲塔横の最上甲板がそのまま海底に繋がっている。バルバスバウは確認できるが、直後で船体に大きな亀裂があり艦首部分は座屈して半壊した状態となっている。菊の紋章は残っているが、以前の探査で確認された金箔が2016年の探査では剥離して失われていた[308]。船首部分の先端は崩壊しており周囲は大きく形を崩しており、過去数度の海底探索で鋼板の劣化により艦首部分の崩壊が次第に進行していることが確認されている[308]。艦橋は船体から脱落して艦首バルバスバウ近くの右舷の下敷きとなっている[308]。艦橋の上に右舷が覆いかぶさっている状態で、15m測距儀や射撃指揮所が遠方から観察できるが、細かい観察は出来ない。, 転覆した状態で、ほぼ海底に水平に沈んでいる。4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが右舷外側の1本は脱落して海底に突き刺さっている[309]。沈没時の爆発でスクリューシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵および副舵には損傷はなく、共に正中の位置となっている。艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い[308]。孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。また缶(ボイラー)なども発見されている。後部艦橋も船体から脱落して船尾部分の横、海底に突き刺さったスクリューの傍に沈んでいる。, 大和の主砲と副砲はすべて転覆時に脱落した[308]。3基の主砲塔は、海底の同一線上に沈んでいる[310]。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味しているとされたが、2016年の探査で、沈んでいる順番は北から順に第2主砲(船尾部分の北側)、第3主砲(船尾部分の北側に接する)、第1主砲(船尾部分の南側)ということが判り、艦に設置されていた状態と位置が交差している。9本の砲身はいずれも泥に埋まるなどして確認できていない[308][311]。主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である。1番主砲塔は上下逆になって海底に塔のように直立しており、上部および下部給弾室なども破壊されていない状態で綺麗に観察できる。一番下になっている砲塔本体の装甲も少なくとも側面の装甲はそのまま残っており、測距儀もカバーごと砲塔についたままである[308]。2番主砲塔は大きく損傷しており、給弾室は斜めに傾斜している。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている[312]。測距儀は残っているがカバーが外れて本体が剥きだしになっている。3番主砲塔は片側半分が海底に埋まっている。副砲のうち1基は3本の砲身が確認されているが、中央の砲身の先端が破裂している。もう1基の副砲は砲身が海底に埋まっていて確認できない。, 座標: 北緯30度43分17秒 東経128度04分00秒 / 北緯30.72139度 東経128.06667度 / 30.72139; 128.06667, 1.

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